初めての国賠訴訟は、中国残留孤児たちが「人間の回復と老後の生活保障」を求めた訴訟。戦前戦中に国策で中国「満州」に移民し、敗戦後に取り残された上、帰国後も支援に乏しい国の責任を問いました。
日本語を話せない原告から通訳を介して体験を聞き取り、残留孤児を生んだ満州開拓村跡地も訪問調査しました。延々と続くトウモロコシ畑、バスでの移動にも半日を費やす広大な大地に圧倒。戻るすべのなかった少女たちの苦悩に思いを巡らせました。
ふるさとの山形県は、長野県に次ぐ移民の送出県。幼い頃、共働きの両親に代って幼稚園の送り迎えをしてくれた父方の祖母は、満州の引き揚げ者でした。「祖母や伯母が同じような境遇になってもおかしくなかった」。原告の体験は、亡き祖母とも重なりました。
平和、憲法をめぐる弁護活動は、原爆症認定、自衛隊のイラク派兵問題などへと広がり、弁護士生活の大きな部分を占めます。